2020/10/24土曜日、練成会に参加しました。
扉絵Photo by KONDO suien.
「日常の書」は師が「稽古の上がりの中で良いヤツを選ぶからインターネット?に上げるように」と指導があり2017年末に突然始まりました。(公開は2018年から)師が亡くなる丁度二年前です。今思えばあの頃から「無意識下の動き」があったものと振り返ります。師自体の感覚としては「潮目が変わった」そういう心境なのでしょう。
_野尻先生は十七歳で母を突然亡くし、その後に祖母の死に触れ、細君を末期癌で見送った。君江さんの死後、「懿徳」という文字を書き出す。意味を「女性によってもたらされた徳」と言った。当時「女性に支えられた人生だ」と自らを振り返る。「幸いにも字面がいい」と笑う。実に書家らしい視点。君江さんが亡くなった後から繰り返し聞くことになった言葉がある。亡くなる二週間ほど前も電話で聞いた。
三密という表現は端から適切とは思えなかったが、何れにせよキッチリ伝えることの難しさを改めて感じる。本当に難しい。順序だって追っていかないと把握出来ないことも多く、事態は今もなお変化し続けている。それぞれ心の構えの段階からして違う。前線に近い人からすると「もういい加減やめてくれ」と言うだろうし、言われた。全く気づかなった人からすると、いきなり掴みかかられたショックの方が強く、内容が入ってこないだろう。
この一ヶ月、体調が悪い中で師の言葉を噛み砕いて何度も何度も書こうと試みたが書けなかった。そのお陰で師が嘗て言わんとした如来の秘密がよくわかる。書くことでマイナスに働く人が大勢想起出来たからだ。余りにも多すぎる。師は「理解出来ないことを気づいていながら言うとしたら、それもまた暴力だよ」と嘗て私に言った。
あれから一ヶ月と少し経つ。正月以外ずっと遺品整理をし続けている。まだ暫くかかりそうだ。「大変だなぁ」、「いい加減疲れた」、「終わってからも世話のかかる」と思う一方で、「まだ関われる」という安心感もどこかにある。全てが終わると呆ける気持ちが今ならよく分かる。もっとも今回は課題が多いので呆ける暇は無さそうだ。そういう意味では敢えて課題を残すのもアリかもしれないと思ったりもする。
祖母は象徴的だった「しっかりなさいね」と別れ際に良い、それが最後の言葉になった。凛々しい方だった。躾に厳しかったが愛があった。その言葉は私の心に支えになっていった。折れそうな時に過る。「負けてなるものか」と奮起する。君江さんは具体的だった。「先生と会を宜しくね」それは足かせにもなった。彼女を裏切りたくないという気持ちが強かった。私にとって二人はどこか生きて感じられる時期が長かった。ある意味では別れきれていなかった。自分の中で乖離したものを感じたままだったのだろう。
本日、泰永会公式サイト(https://taieikai.jimdofree.com/)で公開されたように、令和元年十二月十五日の日曜日に師である野尻泰煌先生が急逝されました。
往復小説#1に3作目となる 天外黙彊作:#1-1-1:葉 が投稿されました。ご一読いただけると幸いです。
2018年5月27日の日曜日。南浦和の鵞毛堂さんにて練成会に参加する。電車では旅気分を味わい、駅からはスマホのGPSと首っぴき。長閑な景色の中、懐かしさを抱えつつ歩く。外は初夏の陽気で風が心地いい。ロングスリーパーの私にとって三時間の睡眠は堪える。息苦しくならないよう通常15分程度の道のりを30分かけ遅々として歩み目的の会場へ。
2018/4/21sa 国際藝術文化協会 の半年に一度の会合へ参加。この会合では毎度様々な分野の専門家の皆様が持ち回りで講話をして下さる。文字通り様々で、今回はなんと
「RAP」
写真家ゾルタン・ガアル氏のお力添えと、呼びかけに応えていただいたケチュメート・青森友好協会、本展開催にご尽力いただいたハンガリー・日本友好協会の会長並びに会員の皆様、博物館をはじめとした関係者の皆様に改めて御礼申し上げます。
7/20は最初の師である亀井鳳月氏と永遠のカンフースター、ブルース・リー氏の命日。
※書道鳳煌会に投稿した 鳳煌書道会のサイト新設に際し と同じ文章です。