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追悼文:いかに生きるかを教えてくれた

_野尻先生は十七歳で母を突然亡くし、その後に祖母の死に触れ、細君を末期癌で見送った。君江さんの死後、「懿徳」という文字を書き出す。意味を「女性によってもたらされた徳」と言った。当時「女性に支えられた人生だ」と自らを振り返る。「幸いにも字面がいい」と笑う。実に書家らしい視点。君江さんが亡くなった後から繰り返し聞くことになった言葉がある。亡くなる二週間ほど前も電話で聞いた。

「僕はいつ死んでも満足だな」

_その際「先生は死をどう捉えますか?」と尋ねた。過去に何度も訊いた言葉だ。珍しく少しだけ沈黙すると「最近よくよく考えたんだけど、」と前置きをし「・・・勘違いかな」と答えた。意味するところは幾つか心当たりがあったが、次の稽古で答え合わせをしようと思っていた。

_「死」に思いを寄せるとき、「いかに生きるか」へ意識は向かう。先生は後悔をしたくないという思いもあり、三十七歳にして全精力をもってして大規模な個展を開いた。人と会うと時は一期一会を胸に秘め、誠心誠意尽くすと決めていた。「僕は別れ際に末期の眼差しで送り出しているつもりだ」と言った。後悔をしたくないからと。悔いのある別れがそうさせた。

_十五年ほど前、次々と辞めていく弟子に業を煮やした私が、不躾を知りながら何度か進言したことがある。それに対して「嫌われてもいいんだよ。相手が理解出来なくてもいい。僕は本物を教えたい。それだけ。運が良ければ知ることになるからね」と言った。その言葉に覚悟と気高さを感じた。

_野尻泰煌は満足した人生を送ったと断言出来る。何せこれ以上ないほどやり尽くした。我儘し放題の人生であった。文句があるはずがない。愛を貰える相手にはとことん甘え、その一方で愛が足りてない相手には惜しみなく注ぐ。私の人生にとって野尻泰煌という存在は何よりも代え難い存在だった。出会った当初より己の幸運を自覚する。

_物心ついた頃から波のように寄せてくる疑問に対し、小さな頭で考え、調べ、訊いたが答えが見つからず不愉快さに満たされ生きてきた。多少なりとも書物を読み、大人達に質問を投げかけ、優れたる人物とされる人に訊ねるも答えは得られなかった。それは濃霧の森を彷徨い、辿り着きたい場所へ向かえない精神状態だった。何一つ、誰一人とっても「コレだ!」という真体を得た答えが返ってきたことは無い。

_光を指し示してくれたのは野尻泰煌その人だけである。道が見えた時、神仏と出会ったかのような感動があった。インターネットやAIよりも、野尻泰煌に聞けば答えが得られた。同時にそれは機心が宿っていた私に人間の可能性を感じさせてくれた唯一無二の人とも言えた。

_なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、絶え間ない「なぜ」に、野尻泰煌は無駄なく簡潔に光を照らした。そこで生きる上で最も大切なことに気づかされた。なぜ愛なのか。なぜ美なのか。なぜ芸術なのか。なぜ古典なのか。前衛とは何か。純とは何か。学問の意義とは。教育とは。オリジナルとは。個性とは。書とは。なぜ日本人はこうなったのか。死とどう向き合えばいいのか。

_師は「そんなの簡単だよ」と言い「それはね」と発する。聞いた瞬間「ソレだ!」と理解出来た。また、理解出来ずとも「何かある」「今はまだわからないけど、コレはとても大切なことだ」「死ぬまでに理解出来ればいいが」と思えるヒントが示された。それは経年と共に次々と氷塊していき「つまりコレなんですね!」と投げかけると「そう! ようやく理解できた?」と彼は笑った。

_そんな彼も出会った当初は違った。「頭で考えるのは不健全だ」と言い、口をつぐむ。それでも投げ続ける私に対し、次第に「何か聞きたいことは?」「質問は?」「まだあるでしょ?」と求めるようになり、理解と共に少なくなる質問に「何でもいいから」「まだあるはずだよ」と要求するようになる。それは亡くなるまで続いた。

_先生は奇しくも最後の電話で「パズルのピースは全部埋まったかい?」と訊いて来た。それは十年前にした私の例え話である。覚えていたのだ。あの忘れる先生が。当時、先生の自伝的小説を書くために連日数時間に渡って電話で話し合っていた。その際に「先生という人間は余りにも大きくて、パズルのピースも多すぎて、埋まらないんです」と私が言った。その時「埋まりました」と答えた。言った瞬間、埋まる、つまり終わり、縁起が悪い、完全に理解することは出来ない、と去来し「98%がたですけど」言い換えた。先生は「だったら、そのうちでいいから、野尻泰煌論とか書いてよ」と言われ「はい」と答えていた。

_ガンジーが「死は全ての終わりを意味するものではない」といった言葉を残している。死に逝く者の思想、理想、理論、仕事、作品、それら生きた証を受け継ぐ者がいる限り、彼らもまた生き続ける。そういった考え方と自らは捉えている。これは私の中で小学生の頃より抱いてきた長きに渡る疑問「死」について見出した数少ない一つの答えでもある。「生」に意味があるとしたら、そういうことなのだろう。「書」を続けてきたのもそうした背景からくる。

_野尻泰煌は大きい人だった。可愛い人だった。素直な人だった。愛がある人だった。我儘な人だった。終生、無意識を最も大切にした。理論で捻じ曲げなかった。私は今後も野尻泰煌のことを語り続けるし書き続ける。それは私にとって自然なことだ。ご飯を食べるように、筆を握るように、当たり前のこと。

Published in文筆

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