よく晴れた夏の日。
世界は力強さに溢れていた。
自然の英気を浴びながら、不意に最後の時を思う。
(死ぬには最高の日。)
先住民の言葉。
「こういう日を言うんだ」と感じた。
姉の所属する交響楽団のコンサートを聴きに親戚一同で訪れたこの地。
誤魔化し難い疲労感を抱えながも精神的には充足感に満たされる。
普段寝たきりの彼にはいい気分転換。
一時的とは言え、音楽は精神を切り替える。
姉は嘗ての教え子に囲まれ、この夏の陽気のような晴れやかな声や笑顔に溢れていた。
(俺は今日この瞬間に死ねたら最高。)
毒が全身に回ったような重苦しい身体を引きづり、
劇場から移動し公園にさしかかる。
ボロ布を纏った方々が目につく。
一団の足は知らず止まった。
(このコントラストが現実。)
世の残酷さに思いを馳せる。
自分も公園行きでない確証は何もない。
退社後、三年もすれば好転か悪化かハッキリするかに思えた我が身は緩やかに毒に侵されるような状況。
治るのか、治らないのか未だわからない。
「働いて死のう」と勤め人時代は腹はくくっていたが、今やその身体は動かない。
電池はきれ、肉体は錆付き、故障は複合的に絡み合う。
認知出来ないものを人は「気のせい」と言った。
いずれ病名はつくだろうが関係ない。
彼にとっては他人事では無かった。
(明日は我が身。)
談笑の輪に加わり、出来るだけこの場を退いた方がいい。
一方で思いながら、輪の足は重く、話しも大きくなる。
「一人苛立っても仕方ない」と彼も腹をくくり談笑の輪に加わる。
少しすると、
ボロ布を纏った一人が動き出した。
公園に来た当初からコチラを見ていた人だ。
(不味いな。)
陽射しや風雪に耐えた真っ黒い顔。
明らかにコチラへと足を運んでくる。
声をかけてきた。
場が凍り付くとはよく言ったもの。
時が止まったように静かに。
「邪魔して悪いけどいいかな。余りにも楽しそうな雰囲気に声をかけたくなって。」
彼は力なく笑みを浮かべたように見えた。
いや、聞こえたと言うべきだろう。
その声に気づいた時には彼は笑っていなかった。
言葉選びの丁寧さと皆の態度のギャップに得も言われぬものを感じつつ、他方では安堵する。
今の一言のニュアンスに人柄が伺えたからだ。危害を加えるような人ではなさそうだ。
「何ですか?」
姉の強い声。敵意むき出しである。
(こりゃいかん。)
これではどっちが失礼かわったものではない。
「久しぶりに会ったもので。つい燥いでしまいました。五月蠅くして御免なさい。」
彼は姉に変わって笑って言った。
「いや、いいんだよ。あんまり楽しそうだからついね。悪いね台無しにしちゃって。」
彼は場の空気を感じていた。
顔は笑っていない。
表情をどこかへ忘れてきたようなズレ。
「どういう関係なの?」
場には彼が望むような和やかさは一掃されていたが彼は話し続けた。
少しの間の後、姉は言い放った。
「貴方に言う必要はありません。」
姉は保護者としての態度で強く臨んだ。
皆も不愉快さを隠そうともせず強い視線を投げかける。
咄嗟にこの会話を引き受けることにした。
「姉なんです。親戚や友人なんですよ。」
姉の背を向け彼に向かい合い言った。
元教え子のことは敢えて言わなかった。
世の中、何があるかわかったものじゃない。
「姉弟なんだ。仲が良いんだね。」
「ま~姉弟ですから。」
「いや。姉弟だから仲がいいとは限らないよ。寧ろ悪いもんだ。」
「そんなもんですか?」
「ああ、そんなもんだよ。俺にも兄や妹がいたが仲は悪かった。」
「私だって別に仲が良いわけじゃないですよ。今日はたまたまです。」
「仲が良いよ。珍しい。だってわざわざ会いに来たんでしょ。・・・何しに着たの?」
「姉の参加している楽団のコンサートがあって。だからですよ。久しぶりですから。普段なんか連絡を取り合うことも無いです。」
「そりゃ凄いね。ほら、随分と仲が良いじゃないか!」
「そうですか? 実感無いですけど。」
続く会話に姉も矛を収め、何事も無かったように皆は話を始める。
彼などいなかったかのように。
二人での会話は一時間近く続いた。
「どうしてこんなことになっちゃったのか。」
彼の人生は壮絶だった。
何が起こるかわからない。
彼なりに何度か再起を謀ろうとしたことも伺えた。
まるで蟻地獄のように落ちていったようだ。
姉が生徒達と笑顔で別れ出す。
そろそろ潮時だなと感じた。
「諦めちゃ駄目ですよ。始めようと思ったらその時がスタートです! 私だってこう見えて身体ボロボロでいつどうなるか判らないんですから。正直ヒフティヒフティだと思ってます。」
「何を言っているんだい。・・・私は近いうち死ぬから。」
彼はこれまでと違った顔で私を見た。
背筋が凍る。
「私だって死にますよ。人は誰だって、いつか死にます。・・・じゃあ、お元気で!」
怪訝な顔で会話に参加しようとする姉が見えたので無理矢理に切り上げる。
「あんた。最後に握手してくれないかね。」
私を呼び止め、真っ黒な右手を差し出す。
姉が不愉快を顕にし近づいてくる。
「ええ、喜んで。」
力強く握りかけた。
少しでも英気を感じてもらえればと。
だが直ぐに力を抜く。
手を通して流れ込んできたのは「死」だった。
その手は握るというより、
握る形をしているだけ。
シリコン製のマネキンの手のようだった。
握るだけの力が、気力が無い。
自らが放った言葉がいかに虚しいものか。
初めて彼の目を真っ直ぐ見る。
両目とも真っ白。
ほとんど見えていないのではなかろうか。
彼の言葉に嘘は無いと感じた。
「楽しかったよ。」
真っ黒な顔から発せられた言葉は、意味合いに反し表情もなく口だけが辛うじて動いた程度の表現。
でも、声から微かに漏れいづる感情が、本心であることを伝える。
「私も楽しかったです。・・・じゃあ!」
それ以上は言えなかった。
力強く応えたつもりだったが、
それすらも空虚に思えた。
「行こう。」
振り払うように歩き出す。
少しして後ろを振り返る。
彼は公園の定位置に移動すると、何事も無かったように身を置いた。
おわり
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