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書簡:亡き師への手紙:序の序

本題

今後、亡き師へ宛てた手紙を書こうと思う。

昨日、ふと思いついた。

私は手書きが遅いので元から手紙もパソコンである。

そのパソコンですら遅く、人様へ手紙を書くのに一日を使うことは珍しく無い。

文章は自らのサイトと、noteで公開しようと思う。

仮に「小説」としておく。

ご興味がありましたら。

更新は不定期です。

わざわざこうして書くのは自分が忘れないため。

最近すぐ忘れちゃう。

メモに書くと、メモを無くし、

デジタルメモに記録すると、どのデジタルメモにしたかわからなくる。

ブログは備忘録としてとても優秀。

これは忘れてはいけないと感じた。

兆し

野尻先生は「ふと」というものを大切にした。

「兆し」であるかもしれないからだ。

師から「野尻泰煌論」を書いて欲しいと亡くなる二週間前お願いされた。

その時「はい」と答える。

しかし「野尻泰煌論」は元より書くつもりは無い。

師が書いて欲しかったのは「野尻泰煌論」ではないからだ。

でも全てを引いて見た時、

結果的に「野尻泰煌」という人物を伝えられると手応えは感じている。

これから書こうとしている「亡き師への手紙」は最も解りやすい部分で書かれるだろう。

他に書こうとしている本は恐らくほとんどの人にとっては理解し難いものになるから助けになると思える。

先生は余りにも複雑な人だった。

難しすぎる知恵の輪。

大きすぎるパズル。

私は師に度々そう例えた。

亡くなる二週間ほど前も言った。

「五歳の子供と八十六歳の学者が仲違いせず同居している」

彼は大笑いし「なるほどね。その通りだと思うよ!!」と関心しきりだった。

複数のタイトルで本にするつもりである。

1つ辺りが長くなるのでライフワークになるだろう。

私はとにかく遅筆である。

気は長く無いのだが、体力がない。

これらは先生が亡くなる一ヶ月前に決めていた。

遂に師へは伝えることが出来なかった。

書き進んだ段階で「よし! コレで行ける」という確信に至ってから告げるつもりだった。

2021年辺りには見せられると思っていた。

先生は終わった人間、予定、物事を二度と振り返らない人だった。

君江さんのことも見事に忘れていった。

昨年等は「君江さんのことはマッチャンに聞いた方が間違いないね」と笑った。

「僕を冷たい人間だと思うかい?」先生は何度か質問してきたことがある。

私の小説に関しては違ったようだ。

「野尻泰煌論を書いてよ」と言い換え改めて望んだ。

これは「小説」は諦めているということも意味する。

私は全く諦めてなどいなかった。

物別れに終わった部分をどう埋めるかずっと考えていた。

そもそも切ったのは先生だし、切られたのは私である。

切った理由は簡単である。

「流れが変わった」から。

だから意外だった。

野尻泰煌の小説

私は20年前と10年前、二度に渡って師の小説を書こうと試みた。私が軽い気持ちで言った時、師は衝撃を受けていたことが思い出される。その理由は後ほど聞かされる。師の母が晩年やる予定だったことだからだ。

一度目はともかく、二度目は二年に渡る執筆となる。

A4換算で上下二段の450ページほど書いただろうか(後で確認したい)、師は一年半以上経過したある日、突然キレた。一向に終わらないからだ。終わらないどころか序盤も序盤である。「これまで書いたやつ全部印刷して読ませろ! どうせつまんないもんだろ!!」と怒鳴りだした。

私は「わかりました」と冷めて応えた。妙に冷静だった。始まってすぐ、いずれこうなることはわかっていたからだ。そして次にどうなるかも概ね検討がついていた。その日、師は私を終始愚弄し、今で言うディスり続け、その日の稽古は終わる。にもかかわらず、帰り道は自分でも驚くほど腹が立たなかった。

小説を渡した翌日、夜に電話は来た。

師は何事も早い。とはいえ、量が量である。翌々日かと思いきや予想より早かった。電話をとる時、少しだけ緊張する。師は興奮した口調で一気に捲し立てた。

「自分のことだと思えない!! 凄く面白い!! 僕の人生は本当にこの通りなんだ!! 本人が言うんだから間違いない!! 嘘偽りがなく、大袈裟でも虚飾も無いのに面白くて読みだしたら止まらないよ!! 気づいたら朝になってた。少し寝てから直ぐに読み直して、もう二回は読んだ!! 今、三回目だ!! このままでいいよ!! このままでいこう!!」

私は淡々と「そうですか。わかりました」と言って電話を切る。

驚きは無かった。でも自信とかそういう類の話ではない。書く側の心境としては「面白いから書き続けられる」のであり、何より「素材が極めて面白い」から、そのまま書けば面白くなるのは「当然」という感覚だった。

少し緊張したのは「他人が書いた自分の人生を本人が読んで面白いと感じるかどうかはわからない」という点にあった。何にせよ何らかの感想は聞けるだろう。それぐらいに捉えていた。当初より私の懸念事項は別にあった。そして案の定それが頓挫の理由へとなっていく。直後、この小説づくりは物別れに終わった。

その後も何度か催促はされたし、「もう書く気が無いんだ?」と煽られもしたが、私の中では物別れの原因が解決されない限り進めるだけ無意味だと感じていた。その後の視点はどう打開するかである。先生は妥協する気は一切なかった。

物別れの要因は根本的な部分である。先生は「小説でやる」という括りをちゃぶ台返しし、「ドキュメンタリーとして出す」と主張仕出した。第一回目に頓挫したのも本質的にはそれが理由である。私は常に「小説」というスタンスで言い続け、「ドキュメンタリーなら書かない」と譲らなかった。

二度目に動き出したのも、その鉾を一旦下げたからであった。でも、元からそうするつもりだったことは明らかだった。私を後で説得出来ると踏んでいたのだろうが、肝心な部分なのでそうは問屋がおろさない。事実を小説として出す例はいくらでもある。私は私で、面白ければ考えが変わる可能性はゼロでは無いと思っていた。

「面白いのだし、嘘偽り無いのだから小説でもいいじゃないですか」と主張する私に、最後は決まって「ドキュメンタリーじゃなければ書くのはやめろ!!」と怒鳴る。そして私は「では、止めます」と言うと「今更止められると思うな!!」と怒鳴る。この繰り返しだ。

そうしたシーソーゲームを続け、あの日キレた。でもお互い考えが変わることは無かった。譲らない理由も深く理解出来ただけに苦しい思いをする。野尻先生の書に対する姿勢に出ている。ある意味では彼が偉大な点である。論破することも或いは可能に思えたが、それは無意味に思えた。論破は必ず良い流れに成らない。良いものにするには論破では意味がない。いい所どりをする方法があるはずだと思ったが、先生は「そんな都合のいいものは無い」と吐き捨てた。以後、十年ほど模索するのに時間を要した。

その辺りは後に本に記述したい。この 「亡き師への手紙」にもある程度想起する内容は出てくるだろう。何せ色々あった。思い出さない日は無い。あれほど何でもバッサリ切る先生が最後まで私をある意味では諦めきれなかったのは書けるのが私だけだからだろう。それほどまでに念願だったのだと思う。それを叶えたいと思う。元々、そのつもりだった。ただ、待たない方がいいだろう。待つと先生同様にキレること請け合いだ。私は体力がない。だから集中力を持続したくとも持続できない。急げば確実に仕上がらない。急がずとも仕上げる方法を教えてくれたのは先生なのだが。(笑)この身勝手さがまさに先生なのだ。

 

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