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往復小説#3:短編:いただきます

泣くとは思わなかった。

人が何を思って泣くか、わからないものだと彼は思った。

自分にとっては単なる無意識の行為、習慣に過ぎない。

とても泣くほどのこととは思えないが。

それでも堅い表情に鋭い眼光を宿した彼女は自ら想像だにしなかったほど泣いていたし、その様に彼は激しく胸を動かされる。

彼女は顔を真っ赤にし、何事かと自ら狼狽え、慌てて手で涙を拭う。

彼が癒やされたとも知らずに。

 

彼女とは言ってしまえば他人である。

仕事上の付き合いとも言えるが、もっとも付き合う前に振られたようなもの。

元々この話は気乗りがしなかった。

仕事としては会う以前の問題。

無駄としか思えない。

でもこの日、彼は社会人で最も感動した日となる。

 

この案件が浮上した際、流すつもりで上司には報告した。

それだけに上司の乗り気には驚かされる。

マスミの好意はありがたかったが、全てのデータが疑いようも無いほど「時間の無駄」と声を揃えている。

それは上司にも言ったのだが「とにかく行け!」と、とりつく島もなかった。

ここ一年以上、納期の明確な案件だけでも大小入れて常時百を切ったことがない。

出来るだけ無駄なことはしたくなかった。している時間は無い。睡眠時間は常時三時間半。気を失うこともしばしば。

上司は売り上げをたてたくて必死なのだろう。それもわかる。「土下座して売り上げが上がるのなら幾らでも土下座する!」と、突然脈絡もなくまくしたてた。上で何を言われたのか、雲の上で何が起きているかはわからないが。日々の疲れが抗う元気も奪い去り、「わかりました」と出てきたわけだ。

とは言え腐っても営業マン。一度 足を向けたからには何かしらの成果を得ようと気持ちを切り替える。

アポをとり、さも「致し方なく」といった風情で出た彼女の顔を見た瞬間、全てが天高く飛んでいってしまった。

その顔は口を開くまでもなく「それどころではない」と物語っている。

裏付けは三秒後にはとれた。

彼女の後ろ側に広がるフロアの様子。社内の光景はそれこそ彼の想像を遙かに超えている。彼はその様にショックすら受け「来るんじゃなかった」と押し切られて出向いた自分を後悔した。

それから何を話したのかてんで思い出せない。

とにかく失礼の無いように自ら最低限度の思いを込めプレゼンさせていただいたが、資料の九割は見せることも無く終えたことだけは確かだ。

彼女はその間、あちらの世界とこちらの世界の狭間に揺れていた。

無理からぬことである。

自分も時々やってしまうので気持ちは痛いほどわかる。仕事の時間を奪ったせめてもの罪滅ぼしに時間を長引かせ彼女が心地よく揺り籠におれるよう配慮するぐらいが関の山。

わかってはいたが話は始まる前から終わっていたのだ。

食事を切り出したのは、この会社を紹介してくれたマスミからだった。

彼女は断るだろうと思った。

提案を受けた時の彼女の表情ときたら親の敵にでも遭遇したかのようなものだったからだ。

真っ黒になった目の下の隈。狭間から辛うじて生還したばかりの見開いた目。「可愛そうに。元気ならさぞやチャーミングだろうに」そう思いながら審判を待つ。

張り手でも飛んでくるかと警戒するほどの緊張感を瞬時に漂わせたが、意外にも彼女は「いいですよ」と力なく応えた。「もうお昼ですしね」と下を向きながら付け加える。

何時もなら「美人二人と食事なんて皆が羨ましがる」と彼も笑顔で言いそうなものだったが、「いいですね」と営業スマイルで言うのが精一杯。

(これでまた仕事が遅れる・・・)

今日何度目かの後悔。

脳内では戻ってからの仕事のタスクが暗号文のように飛び交い、時間割が再構成されていく。

何の盛り上がる気配も無い雰囲気。

間をとりもったマスミに気まずい思いをさせまいと彼は話題についていったが、肝心の彼女はマスミの言葉に関心を示さない。

反応があっても「うん」とか「そうなんだ」の二種類で済まされ、一瞥すらしない。

(本当に友達なんだろうか・・・)

楽しそうなマスミに対し、今にも目が裏返って棒のように倒れそうな彼女のコントラストは奇妙に見える。

これで友達だとしたら世界は不思議に満ちていると思わずにはおられなかった。

彼女の注文した食事の量ときたら働き盛りの彼でも驚くものだ。

運ばれ時、二人分かと思いきや「相変わらず食べるね~」のマスミの言葉に「一人分かーい」と内心突っ込まざるおえないものだった。

ただそれは「大食らい」という意味ではなく、妙に彼の気持ちを軽くさせ、嬉しくさせた。

それでも彼女は何を思ったのか「大食らいなんです」と、目を見開き彼を凝視しながら言った。

表情と内容が一致していない。

いっそ「お前を殺す」と言ったほうがピッタリな雰囲気。

それでも元から口が軽いからか、そもそも根が軽いのか、営業が板についてきたのかわからないが、彼はほとんど考えなしにこう言っていた。

「沢山食べる女性は素敵です」

満面の笑みで。

(しまった)

彼がそう思った時は手遅れだった。

何故ならマスミはこの瞬間「あ!とんでもないことをいいやがった」という顔をしたからである。

ところがである。

彼女とは僅か一時間程度でしかない出会いではあるが、初めて和んだ表情を一瞬見せたのだ。

そればかりか頬を赤らめた。

友人であるはずのマスミの反応。

そして過去のミスからしても、彼女の反応は全く予想に反している。

何が正解か不正解か、何をもって友達というか親しいと思うか、何か根底から崩れ去るような気がした。

マスミは彼女の反応が悪くないことが意外だったのか、少々目をむいて驚くと、それを埋める為か「よかったじゃ~ん」と絵に描いたように軽く肘でこづく。

そして一言付け足した。

「じゃあ、私は素敵じゃないんだね」と彼に言ったのだ。

勿論、深い意味は無い。多分。

これがあるから言ってはいけないのだ。

嘗て得意先で仕事とは全く関係の無い話題から何故か大もめに揉めた経験がある。

ことが丸く収まってから上司が「結局のところ原因はなんだ?」と聞かれたので正直に言うと「なんだそのどうでもいい理由は!あの会社も終わったな!ふざけるな!」と激高した。無理もないことである。少なくとも相手の社長はそれを解っていたにも関わらず揉め事に発展させた。原因は途中で気づいた。上司は最後まで認めなかったが、社長のアレだったのだ。気付いた時は後の祭りである。何がどう繋がり、どうなっているのか、何で怒り、何で悲しむか、世の中というのはつくづく謎に満ちている。

こういう場合に黙っていると大変なことになるが、下手なことを言うともっと大変なことになる。彼は率直に言った。

「自分が望む量を素直にとってくる。それが素敵なんですよ。だからマスミさんも素敵ですよ」

本音だった。

量の問題ではない。

男性の、しかも仕事相手を(成立はしなかったが)前にして素直でいる様が美しいのだ。事実彼は今日一番感動していた。

「あ、ありがと~。素敵って初めて言われた。・・・なんか嬉しいね」

マスミが軽くて助かった。

もっともその態度から社交辞令と捉えたようだが。

ところが彼女は黙ったまま。

顔は尚のこと赤くなる。

その反応で彼女は少なからず思いを受け取ってくれたと気づき、それだけでも嬉しかった。

彼は何時も通り手を合わせ「いただきます」とぼそりと言うと、彼女から本日三度目の鬼の形相で見られる。

一瞬まずいと思った。

宗教問題はややこしい。彼からしたら、この行為と宗教を絡めるのは難しいのだが「無関係とは言えない」と言われればわからないでもない。でも蒸し返すほどの行為ではないと思っている。

無神論者だが子供の頃からの習慣でつい手を合わせてしまう。もっとも日本人の多くがそうであるらし。海外では所作で日本人かどうか見分けるそうだが、その一つがこの行為だと聞いたことがある。

それでも仕事では出来るだけやらないように気をつけていた。実際に少し掘り下げられたことがあったからだ。その時、上司に言われた。「宗教問題は面倒くさいから以後やめろ」と。

「どうしました?」

時が止まったように見続ける彼女に、たまらず聞いてみる。

「いえ、なんでも!」

彼女はここへ来て初めて感情が感じられる言葉を発すると慌てて自分の食事に手をつける。

食事はマスミの独演会となる。

反応しながらもこっちは生きた心地がしない。

彼女は気付かれないようにと注意を払ってはいたようだが、彼の食べている所を度々見ていることに気付いていた。

(恐ろしく気まずい)

途中から開き直っていつも通り食べることにする。

 

そして冒頭の事件は私が食べ終わった時に起きた。

「ごちそうさまでした」

聞こえるか聞こえないかの声である。

すると彼女はその様を見て泣き出したのである。

何がそんなに嫌なのか。

何がそんなに辛いのか。

いや、辛いのだろう。

その点は聞くまでもない。

彼は覚悟を決め彼女に尋ねる。

「どうしたんですか?」

マスミもようやく彼女の異変に気付いたようだ。

「どうしたの?」

彼女はまるでマスミなどこの世にはいないとでも言わんばかりに扱い、今日五度目の形相で、彼を凝視して言った。

「お米が一粒も残っていない」

(ごめんなさい。意味がわからない)

碗に視線を落とすと飯粒が残っていないのを確認する。

「そうですね」

軽い調子で何事も無かったように言った。

「綺麗・・・」

「そうね。凄い上品よね。見て見て、お魚も骨だけ綺麗に残っている。上手よね」

「うん」

(わからない)

「さっき、食べ終わった時、『ごちそうさまでした』と手を合わせましたよね」

一瞬の出来事だったはずだ。

彼は先のこともあるので極力さりげなくやったつもりだった。

始めたのに閉めないのも居心地が悪い。

「ええ」

彼女は大粒の涙を流す。

顔をそれこそ生まれたての赤子のように赤くして、俯いた。

「どうしたの?大丈夫」

マスミは狼狽えたが、その実そこまで焦ってはいないように彼には感じられた。

(いつものことなのだろうか)

ここまで来るとさすがに単なるすれ違いから来る情動とは思えない。

過去において琴線に触れる、それこそ初対面の男を前にしても泣かざるおえない出来事があったのだろうと彼は思った。

「何かあったのですか?」

ひとしきり泣いた彼女は、まるで憑きものが落ちたような爽やかな顔で、一方では沈み、自己の何かを省みながら言った。

「実家が農家なんです。お米は大事にするように、お米には七つの神様が宿っているんだから。残さないように、ずっと言われてきたんです。農家が嫌で、そういう時代でも無いからって東京に出てきてコンピューターの仕事なんかしているわけですけど、どうしても我慢ならないことがあるんです」

「何がですか?」

核心に思えた。

「どこを見ても残すんです!皆!飲み会なんて最悪で沢山残す。それも当たり前のように。気分が悪くなって抜け出したいぐらい。どれだけ大変な思いをして両親が作っているか、それが勝手に思い出されて、辛くて。でも、そういうのが嫌で出てきた自分にも気付かされて。彼らのこと言えたもんじゃないんです。私も同じなんですよ!勿論、彼らには罪は無いのでしょう。わかってますそれぐらい。お金は払っているんですから。でも、でも、辛いんです。大変な両親が頭に浮かんで。辛くてしょうがないんです。だから東京に出来てからずっと人が食べているところを見ないように来ました。腹が立つので・・・」

折衝中はあれほど無言で表情が無かった彼女が息せき切ってまくし立てている。息を切らせて。

「落ち着いて、少し飲んで」

「うん」

彼女は紅茶をまるでビールでも飲むように一気に上げると再び喋りだした。

「私なんかも一粒も残さず食べているんです。そういうのを見て皆言うんですよ『貧乏くさい』とか『卑しい』って。そういうつもりで食べているわけじゃないんです!貴方わかりますよね!」

「わかります。習慣ですよね」

「そうなんです・・・」

彼女はまた泣きじゃくる。

「貴方の食べ方はそれが感じられる。私達を前にしても家にいるように自然に振る舞っていらっしゃる。『あーこの方は普段からこうなんだろうなぁ』と感じられます。だから嬉しいんです。何時もこうなんだろうな。それが当然なんだろうなって。初めて会ったんです!こんなに綺麗に食べられる方・・・」

「私も綺麗に食べてるじゃない」

「何言っているの!残っているじゃないの!ほら、ココとココとココも!食べ方も汚いし!」

彼女はまで酔っているかのようだ。

「すいませんお水いいですか?」

まるで別人。

「ご実家は農業をされてるんですか?」

「え?うちはサラリーマンです。ただ、子供の頃から色々躾けられましたからでしょうか」

「どこか旧家のお出とか?」

んなわけない。

「普通の家ですよ」

「そんなはずないです!絶対に何かある!」

彼女の目は何か無い限り離してはくれそうもなかった。

「ただ・・・」

「ただ!?・・・」

身を乗り出し食い入るように見つめる。

「小学生時代に農家の友人がおりましたので、彼を思い出すと、どうも残せないんですよね」

「それだ!」

「いや、それは格好つけすぎかな・・・正直言えば単なる貧乏性なのでしょう」

「違います!絶対に違います!私が保証します!」

彼女はテーブルを叩き私の代わりに何かに憤った。

「お水どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

ウェイトレスの怪訝そうな表情をものともせず、受け取るや否や飲み干した。

「貴方を見て両親のことを思い出しました。忙しくて連絡もせず・・・酷い娘ですよね。ずっと胸の奥に引っかかっていて、それがどうしてわからなくて辛くて・・・」

破顔すると幾度目かの涙を流す。

あれだけ喋っていたマスミは黙って彼女にハンカチを差し出し、背中をさする。

これまでの様々な思いが噴出するのを身に浴びて、彼は不思議な感慨に覆われていた。

どれほど大変だったのだろうか。

相当に辛かったのだろう。

語るまでも無くその顔が物語っている。

あの社内を見ても一目瞭然だ。あの会社は後何年もつのだろうか。

当初は友達とは思えなかった二人の様子が今や「なるほど」と思えるほど馴染んでも感じられる。

様々な思いが勝手に溢れてくる。

自らの親のこと、躾けのこと、喧嘩、忙しい日々、色々、様々。

「ごめんなさい勝手に喋っちゃって、お仕事のいい返事出来なかったのに御免なさい。ウチの会社、今大変で・・・」

「いやいや」

「・・・今夜、両親に電話して謝ります。これまでのこと・・・」

「よかった。貴方のお陰で私も色々思い出せました。ありがとうございます」

彼女はまたあの目で私を見た。

「一つ聞いていいですか?」

「はい、なんでしょう」

「変なことを伺いますが・・・”いただきます”とはどういう意味なんですか」

「え?」

「いや、わかってますよ!意味はわかっているのですが、貴方の言い方には何か特別な意味がありそうに感じられて・・・ごめんなさい変なことを聞いて」

彼はどうしたものかと一瞬戸惑ったが、頭に浮かんだ言葉を率直に言うことにする。

「私は”命に代えさせていただきます”そういう意味で捉えています。私の命を活かす為に別な命をいただく・・・そんな感じでしょうか」

「それいいわね~」

マスミの軽さはこの期に及んでは心地よかった。

彼女は項垂れる。

「私はそこまで考えたことがない・・・それなのに・・・お米を残していた人を見て怒っていたなんて、最低な人間です・・・」

「私も普段からそんなこと考えながら言って無いですよ。単なる習慣ですから、問われればってだけですから」

「そうそう習慣よ」

マスミも乗っかった。

「彼は違う!そんな軽い気持ちで言ってない!私にはわかるの!私やマスミとは違う人種!」

「えー、そもそも”いただきます”なんて言ってたっけ?」

「嘘でしょ!言ってたじゃない。しかも私達に気遣って、小さな声で囁くように!じゃあ”ごちそうさまでした”って言ったのも聞こえなかったの?」

なんとも居心地が悪い。

「言ってましたか?」

マスミは私に救いを求めた。

「うーん・・・はい」

「ほら!やだ、やめてよもー!なんで気付かないのよ!信じられない!しかもね”いただきます”の時はしっかり手を合わせていたのに、”ごちそうさまでした”の時は軽く、一瞬、合わせるか合わせないか一瞬よ!そうですよね!」

あー穴があったら入りたい。

「えーっと・・・そうでしたか・・・」

「そうですよ!」

「ですね」

「ほらーっ!私達とは人間の出来が違うのよ!」

人間とはわからないものだ。

この僅かな間にここまで印象が変わるとは。

なるほど二人が友人なのもわかった気がした。

(来て良かった)

この会話には忙しさの余り失っているものに包まれている感覚がある。

「もっと話したい!マスミまだ帰らなくてもいいよね?」

「いいけど、そっちはまずいんじゃないの?」

「いいの!仕事の打ち合わせが長引いているって電話いれるから」

「あの・・・どうでしょうか?」

今度はあの眼力で救いを求めてくる。

どんな後ろ髪引かれるものがあろうとも用事があればアウト。

ところがなんの巡り合わせだろう。

会議や外出が多い彼の仕事では珍しく、今日はこの案件だけだったのだ。

もっとも資料作りに明け暮れる為に意図的に開けといたのだが。

普段なら断っただろう。

「いいですね」

彼は小さく笑った。

一瞬頭では明日の朝まで作る必要があった会議の資料がアピールしてきたが、それを払い除ける。

「さっすが~」

彼女はこれまでの緩慢さとは打って変わって、すばやく電話を手にすると、幾つか強い言葉を上司と交わし電話をきった。

「大丈夫なの?」

マスミは初めて心配そうな顔を向ける。

「大丈夫にした!」

この顔を見れただけでも明日の会議の資料以上の価値があると彼は思った。

完全なしらふなのに大いに盛り上がった。

三人はまるで我が家のように伸びやかに喋る。

疲れのためか天然の酔っぱらいだ。

「えー男なのに甘い物が好きなの?じゃーパフェで乾杯しよー!」

「乾杯はさっきもしたでしょ。それにケーキも食べたのに。もーお腹一杯・・・」

「男の癖に軟弱ね。それにケーキは別腹でしょ!」

「いや、ケーキじゃないし」

「いいの!すいませーん、デラックスパフェ3人で!」

「マジカー」

「マジだー」

「頼んでおいてなんだけど、私吐きそう・・・」

「キャンセルしよう!まだ間に合う!」

「ダメ!!乾杯するのーっ!!」

仕事の愚痴を互いに披露し、過去の話でしんみりし、仕舞には元彼の話や「どうして男ってこうなの?教えて!」と迫られる始末。

 

宴は突然、終焉を迎える。

 

レストランの掛け時計が彼女の視界に入り不意に我に帰った。

細やかなる乱の終わり。

「五時のアポには行かなきゃ・・・」

心から残念そうに彼女は言った。

「こんなに楽しかったのは久しぶり・・・」

窓の外を眺める彼女は、後ろ髪をひかれる思いという言葉を体現している。

彼は見惚れた。

「また会おうよ、この三人で、ね!!」

まるで耐えかねて、名残惜しむように、余韻を抱えながら、裏側では来るべき仕事に覚悟を決め、初夏の風のような爽やかな熱気を込め。

「うんうん。凄い楽しかった。また会おう!!」

マスミも伸びやかに応える。

何か大切なことを言わなければいけないと彼は思ったが言葉が出ない。

水面の魚のようにパクパクと口だけ虚しく動く。

何時ものように喋りだせば答えは口をつくだろうに。

会計を済ませ、別れの時が刻一刻と迫る。

「あー名残惜しい~」

マスミが知らずきっかけをくれた気がした。

「あの・・・」

彼は口を開きかけたが、彼女を見て何も言えなくなった。

笑みをたたえ目に涙を貯め感慨に浸る一方で、何かしらの覚悟を決めた顔がそこにはあった。

「あー帰りたくなーい」

最後のチャンス。

「いっそ・・・今日は仕事あがっちゃう?」

彼の声は緊張していた。

「いいね~、私はいいよ!!」

 

僅かな間。

 

「ごめん!!本当にそうしたいけど行かないと。これだけは私じゃないとダメだから・・・」

彼女は肩を落とした。

何か大切なものが失われる予感めいたものがする。

何かが言えるはずだ。でも・・・

(名刺交換はしたんだし・・・また連絡すればいいか・・・)

思いを断ち切った。

「じゃあね!!絶対また会おうね!!絶対だからね!!」

「またね!!無視したら殺すぅ~!!」

「まさかでしょ。また!!お仕事お疲れ様!!」

「そっちもお疲れ様ぁ!!」

日が少し長くなったとは言え少し落ちかけている。

二人の歩く姿を愛おしそうに彼は見た。

不意に彼女が振り返りる。

彼に気づくと大きく千切れんばかりに手を振った。

マスミの肩を叩き彼女も振り返りると手を振る。

飛び跳ねた。

彼は笑い、彼も飛び跳ねる。

そして違う方へ歩き出す。

 

 

どうしてか、

 

 

二人には二度と会えなかった。

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