Skip to content

随筆:日常の書

日常の書

「日常の書」は師が「稽古の上がりの中で良いヤツを選ぶからインターネット?に上げるように」と指導があり2017年末に突然始まりました。(公開は2018年から)師が亡くなる丁度二年前です。今思えばあの頃から「無意識下の動き」があったものと振り返ります。師自体の感覚としては「潮目が変わった」そういう心境なのでしょう。

孫弟子は無理

師とは長く「弟子をどう羽ばたかせるか」について議論というか談話を繰り返して来ました。師は私に年に数回「マッチャンも早く弟子を持ちなよ!」と言っては、私が「先生の頃と今では時代も社会環境も全く違うんです。今後、子供の弟子はこれまでのようには増えません。特別な関係性でも無い限り無理です。失礼ですが、先生ほどの天才をもってしてこの状況ですよ。私からしたら勿体なくてしょうがない。ど凡人の私なら尚更不可能なんですよ。ましてや古典書道です。来ないのが普通ですよ」と言いました。

インターネット

師は「インターネットを使った宣伝行為」を「厚顔無恥」とし長く否定して来ました。20年近くになります。私はインターネットの分野に仕事で関わっていたのでその可能性を伝えたのですが「恥知らず」と随分罵られ、泰永会や野尻先生のサイト、加えて自身のサイトを設ける提案は決裂。なので勝手に始めました。2001年泰永会のホームページを作成したのも無許可です。(笑)

その際「私が勝手にやる分には構わないですよね」と言い、先生が苦々しい表情で見ていたのが思い出されます。ですが先生の思いも最もだと思い、私自身のサイトは設けず、泰永会と先生の告知だけしようと運用を開始したのです。それは早速効果を上げました。

でも先生は否定のスタンスを崩しませんでした。孫弟子の件を言われる度に「だからインターネットを使って何かしらの作品や視点を書いて活動を少しでも公開するのは残された唯一の道なんです。それでも来ない事実にはほぼ変わりは無いですけど」と言い続けては「それは違うよ」と言われたものです。それだけに2017年末に先生が下を向いて「上げなさい」と言ったのは驚きがありました。

好機到来

師は「好機」というのを生涯大切にされました。その潮目の見極めは超能力的で、外したことがありません。弟子を羽ばたかせる好機が遂に来たと捉えたのが2017年なのでしょう。なのでこれまで否定してきた「自作をネットに上げる」という行為も受け入れたように思います。ただし先生の基本的考えそのものが変わったわけではありません。弟子を少しでも羽ばたかせる可能性の一つとして「インターネットに自作を上げる」という行為も視野にいれたに過ぎません。私の提案を肯定せざるおえない現実を受け入れたように感じます。それほど先生は弟子のことを考えて下さる方でした。

転機

2017年は単独による初の泰永書展の海外展がハンガリーで開催され、現地のニュース媒体にも取り上げられた年でした。先生とは「遂に来ましたね」という話をよくしておりました。そもそも海外展を泰永会でやるメリットは先生ご自身には余りありません。何故なら自身は断るぐらい海外からオファーは来ており、既に選別の段階に来ていたからです。

泰永会で海外展をやるのは基本的に弟子の為です。寄贈に関しても弟子の今後を考えてのことで、その点に関しても以前から先生と話してました。自身は既に出せば最高賞の受賞、博物館へ収蔵という流れがデフォルト化しておりました。先生が寄贈にこだわりだしたのは私と長きに渡る話し合いが由来しています。先生はかくも自らの恥とすることも厭わないほど弟子のことを思っているのかと感じ入ってました。

賞の意味

先生は賞に何ら価値は無いという考えは出会った当初より変わりませんでした。逆を言うと「価値のある賞は最早存在しない」とも言えます。何故なら先生は審査する側だった為、その惨状を痛いほど理解していたからです。実際に何度も逆らいハブにされたようです。その話をよく聞きました。

ですが、私はそれを知った上で「それでも世間の下々の者に対しては意味がある」と言い続けました。実際のところ企業の内情も同じようなものでしたので私には驚きはありませんでした。2004年に依頼がありフランスの国際展に出すよう強烈に勧めたのも私でした。先生は片っ端から審査も含め依頼を断っていました。当時、先生は海外に出すことの無意味さ、己をアピールすることの厚顔さというのを繰り返し言っており、フランス展の誘いも断るつもりでした。

ジャブ

その際に私は「ジャブの例え」を出したのですが、先生はそれを終生覚えていました。インターネットに作品を出すのも私からすると小さな小さなジャブだと伝えてました。「虚仮の一念岩をも通すですよ!」と言いましたが鼻で笑われたのが思い出されます。(笑)当時、先生は完全否定していたのですが、フランスに出しコート・ダジュール国際藝術賞を受賞し、次々と海外展へのオファーが始まると風向きが変わったといった風情でした。師の偉大な部分は、いざ鎌倉となると、これまでの主張を180度切り替えることが出来る点です。かといって信念は変わりません。風見鶏ではけしてないのです。

それを覚えていたようです。ですが弟子の実力では無理。それをどうするかと考えた際に自身が客寄せパンダになり弟子も連れて行く。そう考えたのです。師は嘗て「自分の、作品にも満たないものを恥ずかしげもなく自らの手で公開するなんていう傲慢で厚顔無恥な輩が多いそうだけど、見てもらえるような作品かどうか自らの良心に問いただした方がいいと思うね」と仰っしゃっていた方です。

弟子

今にして思うと、亡くなる前の3年ほどの先生は自身の用事より弟子のことで奔走していました。私は辛そうな先生を見かねて「君江さんが亡くなる際に仰ったように、もう先生は好きなようにご自身の作家活動に没頭していいと思いますよ」と2,3度進言したことがありますが、「そういうわけにはいかないね」と断りました。私からすると先生は辛そうでした。何せ我儘な人なので。(笑)本質的には「僕を甘えさせろ! お前のこと? 知らねー勝手にやってろ!」それが師でした。

指導

師についた以上は師の指導は天啓のようなものだと私は考えてました。議論はするけども大前提として主義主張の矛はおさめ実行することが前提です。そうでないと師の意味が無いのです。言うなれば師とは古典と型と同じです。一旦自分を横へ置いておいて師の型に自らをはめていく。そうすることで自身を拡張するのが目的です。

2017年末に「ネットに選別した稽古の半紙を上げるように」と言われた時「あんだけボロカスに否定しておいてソレ!?」と思いつつも「あー、なるほど」と思い公開することにしました。当初は忙しさを極めていたのと、先生の気まぐれの可能性もあるので、全部では無く月1枚とかでしたが、先生が嘘偽りなく本気であることが伺え、要求に応える努力に切り替えていき、次第に増やしていきました。

日常の書

当時「え・・・これ全部ですか?」と返すと「そう」と仰っしゃり、「じゃあ、このまま写メとって上げる感じでいいですね。さすがに数が多いので」とボソリと返すと、「作品集あるでしょ?」、「え?」、「ああいう感じでやって。綺麗にして出して、人が見るものだから」と、「え?! 加工したのをアップするんですか?」と返すと「当然。出来なければ仕方ないけど、マッチャンは出来るんだから」と。

本人には言いませんでしたが「面倒くさいなあー(笑)」と思いながら実行へ。これも師のご指導なのだからとアップを続けてきた次第です。ですので今後も「日常の書」はアップしようと考えております。

作家活動

師の主宰する泰永会の運営を退いたら現在始めている活動に切り替えるつもりでした。2018年に一度は断念し、2020年末に、遅くとも2023年には開始しようと考えておりましたが、師が急逝され何の因果か活動を徐々に開始しております。

生前は、泰永会の細かい裏仕事、肥大化する作品集制作、国内展の手配、そこに加えて師の個人的な仕事の膨大な手伝い、以後ようやく自分の仕事と、自身の作家活動の余地は一切無く、辛うじてストレス発散に余技である「小説」書きをするぐらいでした。

小説

そもそも「あんた小説書けるんだから書きなよ」と言ったのは先生でした。先生が居なかったら私は今のような小説を書けなかったでしょう。その方法論を教えて下さったのも先生ですし、書くことを鍛えたのも先生でした。もし先生と出会わなかったら何一つ完成することなくバラバラな小説の断片が増えるばかりだったに思います。

2019年に先生は突然脈絡もなく「あんた小説家になるの? 書家になるの? どっちなんだい」と問いただしました。恐らく第二回藝文東京ビエンナーレでの小説への入れ込みや、往復小説の主宰、楽しそうに書いているのを見て思うところがあったのでしょう。先生は半端な人間が大嫌いでした。「それともマッチャンは二足のわらじ履ける天才だと自分のことを思っているのかい?」と言われました。「小説家になりたいのなら僕は止めないよ。なったらいい」これはつまり事実上の破門宣告。

私は少し冷静に自身の中を弄り「自分の思いを外に置いておいて自己を客観視すると、真面目に小説家になるにはもう手遅れですよね。どう考えても時間切れです。せいぜい遊びの部分で書く程度に思います。となると私はやっぱり”書”しかないと思いますけど」と答えました。すると大変嬉しそうに「そうか! そうだろう! さすがマッチャンだ判ってるね! 馬鹿じゃなくて本当に助かるよ!」と笑いました。

急逝前

今にしても思うと私が書に対して何かしらの思いが離れていると感じたようです。しかし時期を振り返るに私の心情とは真逆でした。2017年に最初の師である亀井鳳月先生と野尻先生の奥様の茹園先生の七回忌、十七回忌を七月、八月と重ね、その年に書を愛した森寛翠先生や、本名洗心先生の立て続けの死。好き嫌いを外へ置いておいて、弟子のある無しに関わらず書を続けていきたいと妙に腹に落ちた時期なのです。腹に落ちている分、意識には浮上しないものです。

その先生らしからぬ的外れな指摘に気づいた時、妙に嫌な感覚になったのが記憶しております。野尻先生は超能力的なお人なので、そうした決定的な勘違いや間違いはこれまでありませんでした。しかし2017年頃から先生は明らかに致命的なミスや勘違いが散見されだしたのも事実です。機会を見ては「先生、身体だけは大切にして下さいね」と念を押して来ましたし「検査に行った方がいいのでは?」とも言いましたが、その度に「僕はこれまでの人生で今が一番元気だよ!」と明らかな嘘で返してきたのです。私が「そうは見えませんけどね」とボソリと言うとギョッとしている。明らかに自覚はあったのです。その際も「君江さんが仰ったように、もう好きなように活動されていいんじゃないですか?」と言うと「そうはいかないね」と決意はかたいようでした。

野尻先生が生前「完璧ということは完璧じゃないということなんだよ。そこに完璧の恐ろしさがある」と仰ってました。どういうことかと言うと「完璧ということは予期しない部分で突如崩壊することがある」という意味です。それだけに師は細心の注意を払ってました。同時に「それでも人の生死はわからない」と仰っていたことが思い出されます。

日常の書を見る時、先生とのこうしたやり取りを思い出します。

Published in文筆

Be First to Comment

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。