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随筆:能動的禅

2018年5月27日の日曜日。南浦和の鵞毛堂さんにて練成会に参加する。電車では旅気分を味わい、駅からはスマホのGPSと首っぴき。長閑な景色の中、懐かしさを抱えつつ歩く。外は初夏の陽気で風が心地いい。ロングスリーパーの私にとって三時間の睡眠は堪える。息苦しくならないよう通常15分程度の道のりを30分かけ遅々として歩み目的の会場へ。

今年は草書長条幅4幅を泰永書展にて披露予定。自運は充実感があるが対して今年は羅針盤がある気楽さがある。事前に4幅を1本に巻き3セット。仮にぶっ通しで書いても最低6時間はかかる計算。無理だとはわかっているが、師の教えである「多くて困ることはない」から多めに準備。釈文の活字化も済ませておく。意識が飛びそうな時に楔として使う。墨汁は予め自分で決めた濃度に水で薄めてキムチの空き瓶へ。何ヶ月も前から洗って乾燥させてある。そして筆置きを2つ。文鎮も兼ねている。木製の鯛をモチーフにした筆置きは昨年七回忌を迎えた最初の師である亀井鳳月先生から小学生高学年の時に頂いた。前日に気づく。なんとも感慨深い。

会場の流れを汲み、立って書くことに。予てよりやってみたいと思っていた。練成会ではそれぞれの参加者がそれぞれの課題やテーマに取り組む。私のテーマは師の個展における方法論の再現。能動的禅の実施。準備してすぐに書き始める。休まず書く、疲れても書く、手が震えても書く、座り込みたくなる衝動を無視して書く。これが書における能動的禅の試み。言い換えるならランナーズハイと同じようなもの。意識を肯定的に無視することで肉体が力を発揮。その際、無意識になる。でも手は動いてる。それはあたかもロボットがプログラム通りに動いているようなものだが、人は生身である以上、生まれつきのもの、生きてきた積み重ねのようなものが揺らぎの中で表出する。

睡眠不足に加え、体力的天井が非常に低い私は簡単に体感することが出来た。逆に体幹が強い人だと何日も徹夜しないとならない。苦しみを抜けると(ある意味抜けてはいないのだが)ランナーズハイのような状態になった。書いていて苦しいし痛いのだが気持ちがよい。脳内麻薬が出ている証だ。幼き頃に事故を経験したこともある私は覚えがある感覚だった。筆が勝手に動いていく。肉の脈動感が感じられ次から次へと書ける。一方で身体を支える左腕はキシミ、足が震え、息が荒くなり悲鳴の交響曲が流れている。それすらも心地いい。「もっと音楽を!」という感覚が覆う。

終わりは突然に。支える手が震えすぎ立っていられなり音楽会は終りを迎えた。案の定 満足に動けなくなる。辛うじて立っている感覚。座っても回復しない。やむおえず震えを抑える為にコンビニへ。身体が鉛のように重い。機関車に薪を焼べるようにチョコやらアイスやら投入。さてと続きを!と思った矢先に時間切れと相成った。

品評会にて「果は明清の書が頭に浮かぶ」とお言葉を。自分なりに合点する。あの時代は個性派揃い。個人的な趣味趣向とは違うが「やはりそういう方向性になるか」と再確認した気がする。その辺りは好むと好まざるとにかかわらず。人は持てるものでしか勝負は出来ない。

能動的禅が極まると限界まで疲れないと聞く。折をみて何度もやらねばならないと感じた。今のうちに身体が壊れない程度にやる道を探る必要がある。最初の師である亀井先生や同門の森寛翠さん、本名洗心さんと関わって感じた。老いてなお快適に筆を持つ上でキーになる。どうにもならない肉体を受容するのは容易ではない。それは誰しもがいずれ経験するだろう。幸か不幸か私は二十代より現在に至るまで日々経験している。制御出来なくて当たり前の世界。震えても、苦しくしても、さして意識には触れない。震えたままにどうヤルかに視点がある。

能動的禅が体得できれば、そうした視点すらも越えて泰然自若として自然理の中で書くことが出来るようだ。結果的に書と共に歩んだ三人に背中を抑れ今の自分があるのだと気付かされた。

 

Published in文筆

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