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随筆:鳳煌書道会のサイト新設に際し

※書道鳳煌会に投稿した 鳳煌書道会のサイト新設に際し と同じ文章です。

なんとも不思議なもので今年の7月20日で最初の師である亀井鳳月さんの七回忌、8月10日で野尻茹園さんの17回忌を迎える。
不意に「なんとかしないと」そんな思いが浮かび、まずは得意とする部分でサイトの新設を思いつく。書道・鳳煌会(鳳煌書道会):http://hoko-kai.yataiki.net/
書道鳳煌会の開塾にはこの2人の後押しがある。

亀井鳳月氏は私の最初の書のお師匠さんだ。
小学二年生の時に入塾し、約20年間お世話になった。
本当に朗らかで穏やかで子供を心から愛して下さる先生だった。何時も笑いが絶えない。
お喋りが盛り上がり過ぎると、優しい笑顔で「ほらほら、手がお留守ですよ」と言って書くことを促した。当時ポイントを貯めて先生から頂いたノートを書に関する覚書として今も使っている。
自らは隷書を基軸にする掃雲会という井野大雲(故)を師とする全国規模(当時)の書道会に所属し長く貢献。会の方針に乗っ取り隷書を基軸に学ぶ。

野尻茹園氏は現在の私の師である野尻泰煌氏の亡き奥方である。
縁とはいなもので、二人共亀井先生と同じ会に所属していたが、後に退会し泰煌氏の塾に転籍。
多くの言葉は交わせなかったが、一目見て強いシンパシーを感じた唯一の人だ。
様々な日本の工芸や芸術に造詣が深く、最終的に書が残った。
自らは金文を語り口とした書作家活動を始めた矢先の死。

現在の師である野尻泰煌氏から書の道を歩むこと、その後、開塾の勧めを断り続けた。
理由は簡単で「興味がない」のと「才能がない」からである。
私が書を続けた唯一の動機は最初の師である亀井鳳月氏と会いたかったからに他らない。
野尻泰煌氏の門下生になったのも亀井先生の推挙による。当時、動機を失い肩を落とす一方、心を尽くしして下さった彼女の思いを受け取ることに。

ある日、師に五反野に呼び出されると茹園氏もいた。「また例の件か」と思う一方で彼女とは話してみたい。
師の弟子に多くを語らない彼女がその日は饒舌で、その最中「書の道を歩んだ方がいい」と今はなき日本料理屋で諭される。
「わかりました」と応えたと思う。
多くの言葉を交わしたのはその時がほとんど唯一と言っていい。
帰り際、それまでと違った心持ちで家路についたことが思い出される。

第十五回泰永書展の年。2004年に開塾を促され 書道 鳳煌会 でどうだろうと師は強い口調ですすめる。以前とは違う次元。
受け入れることにする。師は初めて自宅へ訪れ、部屋を見て「いいじゃないか」と背中をおして下さった。
亀井鳳月氏の体調が優れないのが大きかった。何か、些細なことでもいい、感謝の断片でも伝えられればと開塾を受け入れた背景がある。
電話で報告し大変喜んで頂け、体調が整ったら一度訪れたいと言って下さったが、それは叶わなかった。

それからしばらく時は過ぎ、亀井先生の体調は悪化の一途を辿り、自分なりに思い詰め、長らく考えていた。平成二十三年七月二十日。撮影中、不意に師が「今年は今までよりも遥かに書が良くなったけど何かあったの?」と言われ、
「これからは恥ずかしながら書家としての心の背景を持って歩みたいと思いまして。それが亀井先生の恩に報いる最善策かなと」勝手に口をついた。言いながら「とんでもないことを言っているな自分」と思ったが後の祭り。師は大変喜んで下さり、「亀井さんも喜ぶよ。これ以上ない最善の道」と。

翌月、亀井先生の友人から、まさにこの日、彼女が亡くなったことを知らされる。

「弁が立つ人間は弁を控えよ」「(雑文を)書く前に(書を)書きなさい」と師に諭されて「なるほど」と思って以来、サイトでの動きも長く控えてきた。
ここ数年は兼ねてよりの師の勧めもあり文筆家としての歩みも始めている。これも一つの仕事と活動を活性化させようと考えている。

不器用な人間には利点がある。些細な気づきが器用な人間よりも多い。文化というのは生活に根ざしたものと考える。当サイト(鳳煌書道会)の記事が、筆をもつ小さな動機、日本の文化に触れる動機になれば冥利に尽きる。

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