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寄稿:藝文誌#02:春話

2016年春号 藝文会の会誌#02 に寄稿した文章を掲載。テーマは「春話」。文字数の制限は1000文字前後。発想の根源はアッチの方かな?と感じつつ自分なりの視点で書く。この春は何かと思うことが多かった。

「春話」

今年の桜は1日だけ通りすがりに見ただけで終わった。

春になると細胞は劇的変異を遂げ温暖な気候に耐えうるよう変体する。視点や説にもよるだろうが細胞レベルで全くの別人になるとのこと。そこで季節を乗り越えることの叶わない生命は選別されていく。

「遂げられないのならヤメればいいのに」

いつもそんなことを感じていた。変異を遂げなければ寒さに対応した肉体は暑さに耐えられない。結果は同じである。同じでも苦痛や負担は少ない方がいい。にも関わらず肉体は生きることを前提とし、思いとは関係なく動いていく。
素人なりに医学関係の本を読み、そこへ自らの体験を照らし合わせると、千変万化におよぶ様々なバリエーションの苦痛は生きんが為の反応と読みとれる。これは肉体から顕在意識へのメッセージ。要求は主に肉体感覚として表現され、より痛みを伴うことがあっても止まることはない。

「人は決められたプログラムに則って動くのみであるから、緻密に出来たコンピューターと代わりはない」

ある専門家はそう述べた。一面では間違いないと感じる。ただ、コンピューターや機械は経験が出来ない。人間に当てはめると頭だけの世界である。感覚器官を通して頭以外の部分で取り込むことが叶わない点で大きく異る。ましてや人間には、命たる肉体、自我たる無意識、自己と思っている顕在意識の存在の調和と不調和がある。それらは領分があり侵すことが出来ないものだと体感する。永くお互い緩やかな干渉にとどめられ直接作用することが少なかった、三権分立とも、三竦みとも言えるその関係に大きな危機的変化が生じていると感じる。首謀者は顕在意識の台頭かもしれない。

顕在意識だけは肉体と無意識をねじ伏せることがある程度は可能だろう。しかし顕在意識が肉体を無視すれば命を失うし、無意識を蔑ろにすれば精神を病む。結果はいずれにせよ共倒れになる。顕在意識以外の声は大きくはない。中でも無意識は最も声が小さく、他者の視点や作物の結果を通してでしか普段は感じ得ないようにも思う。慎重に顕在意識は肉体の声に耳を済ませ、無意識を汲み取り、上手にそれらを調和させてこそ人は十二分に生きたと言えるような気がする。

生きるとは痛みが伴うようだ。裏を返せば生きているから痛みがあると言える。自己の体験でもそれは頷ける。死に寄っていく際に痛みは遠ざかりふわりと浮かび上がる感覚がある。それはけして悪くないもので寧ろ心地いい。生に寄っていくほど激しい痛みや苦しみが身を覆い尽くす。ある産婦人科医は「赤ちゃんが出生時に『おぎゃー』と泣く理由は、過酷な『酸素』との戦いが始まったことを感じ、その苦痛に対する雄叫びなんだ」と言う。

肉体は桜を見るまでもなく春を感じていたようだが、顕在意識は今年も桜を見たがった。動き出さないところを見るに、無意識は「もう見ただろ」という所かもしれない。通りすがりに桜を見た折、胸に迫る一方、顕在意識の感動を削ぐ一報が潜在意識から届いたようだ。
「桜は・・・咲くよ」
それはある人の言葉だった。

Published in文筆

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