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寄稿:藝文誌#01:私のアイデンティティ

2015年に創刊した 藝文会の会誌#01 に寄稿した文章からプロフィールを除いたもの。投げられたテーマは「私のアイデンティティ」、文字数の制限は1000文字前後。本人が書けば自ずとアイデンティティとなることから、当時感じていたことをベースに自由に書き始めた。最終的には自らのアイデンティティの一側面に辿り着いたと感じる。文章としては、何度も推敲し頭から書き直しているうちに段々面白くなくなっていくのを感じ、頃合いをみた。

(私のアイデンティティ)より

いいと思えるものは強引に与えるぐらいで丁度いい。古典なら間違いがない。取捨選択は自ずと個々人の中で行われるから、それを否定しなければいい。先日、写真家の浩義氏と話した後、そんな思いが頭をよぎった。

社会人になり驚いたことがある。学校の行事以外で美術館や博物館に行ったことがないという人が存外多い。自分はどうして当たり前のように行くのか考えた。その答えは今まで出なかったが、先日の話の後で不意に思い出す。子供の頃は何かと母が連れ出してくれた。「上野でやってる浮世絵展に行こうね」と言われれば「うん」と答えた。東京へ行くだけでも大変な距離。面倒だと思う一方、どこか未知の出会いが待っている気がして胸躍るものもが。単純に電車に乗るだけでも非日常を感じられた。もとより子供側からすれば断る理由がないだけだったからかもしれない。

「これの何を大人はありがたかるんだ?」

そんな思いを抱きつつ、一方では退屈さを抱えながら、他方では不思議そうに展示物を眺め、この後にあるであろう外食を楽しみにする。

それらに浮世絵があった。西洋画の名作が。写実画があり、印象画があり、抽象画があり、宗教画があった。家にはモナリザのポスターが掲げられ、名も知らぬ油絵があり、日本画が飾られ、浮世絵が当然のようにある。伝統的型の茶碗があり花瓶が。博多人形があり達磨さんがあり日本人形が置かれ木彫の熊が鮭を咥えている。マトリョーシカ人形で面白く遊んだ。それを当然の景色のように。意識に触れない、なんの意も介さず目に晒していた。

古典的洋楽やクラシック、日本民謡は母が料理を聞きながらステレオで流していた。時にはコーラスで歌うからと口ずさむ。母の歌を不思議そうに聞く。それらを聞くと鮮烈に肉体が反応し感動が呼び起こされる。全ては他からもたらされていた。恐らく私が触発されたもの全てが含まれていそうだ。

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